第62通勤モノレールにさよなら

死を超えるプロセス

沖縄にない電車の魅力

 2020年4月 新しい赴任先は那覇の市街地。憧れのモノレール通勤になった。  

 ほんの数ヶ月前、我が家近くに延長したモノレール路線の駅ができた。駅まで徒歩7分。 しかも時間通りにやってくる。なんて最高な通勤手段。 

「あ~、ずっとずっと、あこがれていた電車通勤」 

 そう、私は昔から電車に乗るのが大好きなのだ。なぜなら沖縄には電車がないから。

 その昔、電車に乗りたくて、家出同然に東京に行ったことを思い出す。 

 高校2年生の頃、学校の勉強に身が入らかず、ある日、アルバイトの給料袋を握りしめ。飛行機に乗った。 

 向かった先は姉のいる東京突然の連絡に驚いた姉だったが、羽田空港で迎えた満面の笑みの妹に呆れつつ、私に指示した。 

「明日からずっと私は仕事。あなたは一人で電車で移動するんだよ。今から私が言うことよく聞いて。電車の乗り方を覚えて」と移動手段となる電車の乗り方を教えた。 

 路線図の見方、駅構内の案内板のカラフルな丸マークの意味、鉄道路線を色で覚え、色に沿って乗り換えをすること。 

 路線図が網の目のような絡まって、目的地までの経路をひもとくと妙な達成感。カラフルな色に誘導されて歩く駅構内や通路は異次元小旅行。 

 券売機の前でのちょっとした緊張感。どれもがスリリング。

 こんな気分を味わえるのは47都道府県できっと沖縄出身者だけ。 

 さすがに通勤電車の混雑だけはビビったが、あこがれの電車で過ごす東京1週間を楽しんだ(家出したと思った母には大目玉だったが) 

憧れから変化したモノレール

 そんなエピソードを持つ私ですから、沖縄にモノレールが敷設されると聞いた時は、そりゃあ嬉しく飛び上がった。 

 完成して運行するまでに十年以上かかった時には、会えないスターを待つ気分だったが、初めて乗った時の感動は忘れない。 

 ただ、乗る機会が多いわけではなかった。だから、近くに駅ができ、モノレール通勤、と決まったときの気分は極上だった。 

 2020年4月からモノレール通勤がはじまった。 

 1週間経つと、夫は3度目の手術で入院。退院してからあれよあれよという間に体調は悪くなった。 

 

 やがて、出勤する私を玄関まで見送り「今日は何時に帰るの」と聞くようになった

 「早く帰るね」といって向かった駅まで道のりは重くなった。 

 通勤4ヶ月目の7月には「今日は仕事行かないで家にいることはできないか」と弱音を見せるようになった。 

 玄関を出ると涙が止まらず「なぜ仕事に行かないといけないんだろう」と、駅に向かう足どりは罪悪感しかなかった。

 8月に夫は逝った。

 それからのモノレールはもっと辛くなった。 

 見送る人のいない玄関をでて、泣きながら駅まで歩く。モノレールに乗り首里の町並みを眺めてはまた泣いた。 

 毎朝が最悪の気分。コロナ禍でマスクしているから泣き放題涙もよだれも隠し放題。 

 

 モノレール通勤の3年間は「憧れ」から「どんより曇った」通勤に変わった。

 

 4月からまた職場が変わる。モノレール通勤から自動車通勤になる。 

 目の前を見上げると、流れるように走行するモノレールが通過する。

  

 憧れだったモノレール。今は切ないセピア色だけど、ゆっくりトキメキが戻るの待ってみよう