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ある日父は亡くなった
1990年1月のある日、外出していた母から電話があった。
「よく聞きなさい。お父さんが亡くなったから、すぐ家を掃除しなさい。お葬式の準備をするから」
「えっ、葬式? お父さんって私の父親のこと???

空手9段、古武道8段の腕前を持つ父は、公務員という肩書もあり(小さな地域の)ちょっとした名士。
「先生」と呼ばれると調子に乗り、誰かれなく連れて飲み歩く豪遊家。
散財たるさまはひどいもので、親から受け継いだ財産は全て夜の飲み屋に使い果たした
月何十万の「モアイ(頼母子)」を何本か掛け持ちしていたから、家計は常に火の車。
元教師だった母の苦労は言わずもがな。
嫁いだ途端に「女性の仕事は家事と子育てだ」と5人の子供と父の両親の世話。
飲み歩く父はまともに家庭にお金をいれないから、母は常にお金の工面に走り回っていた。
主婦業だけをやらされたかと思いきや、父は勝手に商店を開業し「公務員の自分は経営できないからお前がやれ」と母に無理やり経営をさせた。
ある日、大学卒業したての兄ちゃんが荷物を持って訪ねてきたことがあった。
「空手の弟子だから今日から一緒に住む」と父がいい、その日から5年間、その人は私たちと一緒に住んだ。
父の無茶振りエピソードは枚挙にいとまがない。
父が死んだあの日の母
そんな父は、40歳のとき脳溢血で倒れ半身不随状態。
そこからで必死にリハビリして仕事復帰。数年で普通に生活できるまでになった。
半身不随になりかけたから豪遊生活にはピリオドを打ち、これで家族の心労が減る、と安心しかけた。
が、今度は脱サラ目指して、訳のわからないビジネスに手を出していた。
ビジネス開業の準備で事務所をかまえ、そこで心筋梗塞で倒れて亡くなった。享年53歳。
外見的には裕福に見えるのに、家には常にお金がなく、私は高校から大学までずっとアルバイトで、学費を稼いでいた。
だから、ずっと父を恨んでいた。そんな矢先、父が突然亡くなった。
法事のたびに母はずっと泣いていた。散財家であんなに苦労させられたのに愛していたのだろうか、と不思議に思った。
私も姉も悲しいはずがない、と思ったのに、なぜか姉と二人でよく泣いた。
ある時期までは裕福な環境で育ててもらったし、可愛がられた記憶もある。
そう、死者との思い出は都合が良いのだ。だから、悲しかった。

父が死んでも莫大な借金が残った。だから、悲しみはすぐに恨みに変換した。
これまた死者への愛情も都合よいのだ。
仏壇に向かって手を合わせる時、「いい加減、宝くじでも当てて、残された家族を少しは楽にしたら」と文句しかでてこない、
母は「成仏できないから文句は言わないよ」という。なんて心の広い人なのだろう
成仏する権利があるのか、と思いつつ、遺影は「まぁ怒るな、俺のおかげでお前たちは成長しただろう」と言わんばかりの笑顔。

第1話も読んでみて
毎年、1月21日父の命日になると、母の電話のあの声を思い出す。
凛とした声で子どもに指示するあの声。
私も夫がそうなった時、あの時の母のように凛とありたいと思っていた
実際、そうであったのかは覚えていない。ただ、あの時の母は毅然と振る舞ったのではなかった。
現実を実感できないまま、やるべきプロセスを淡々とこなしていただけなんだと。
それでも、夫の通夜、告別式、49日法要までの日々は、あの凜とした響きに支えられた