夫と弟
1ヶ月に1回、義弟が東京から帰ってくる。夫より7つ下の弟で東京に住んでいる。
義母の様子を見るため1年ほど前から定期的に帰ってくるようになった。夫が生きている時には、心理的距離は近い関係ではなかった。
夫が亡くなって法要を経るごとに仲良くなり、いつのまにか帰省すると当たり前のように飲みにでかけるようになった。

夫は両親に厳格に育てられた(と、いつも愚痴っていた)。
「7つ離れた弟には親は甘かった」両親の代わりに小さい弟の面倒をた夫は「とても可愛かった。けど、あまりにのびのび自由だから、ついいじめてしまった」と言っていた。
義弟は、東京近郊の大学に進学し短期留学して、博士課程に進んだ。
「こんな年まで親の世話になるなんて頼りない、同じ年の新聞記者の後輩はしっかりしているのに」と叱った。
研究論文の中身に対しては、机上の空論だとケチつけた。
私が義弟なら机をひっくり返して反抗する。が、義弟はおおらか、全く意に介さなかった。
兄弟の長い空白
義弟は、大学時代から10年以上付き合っている聡明な女性と30代で結婚した。 長い大学生活を経て、東京の研究機関に就職し、晴れて結婚することになった。
伴侶となる女性は、持病があり身体が弱かったため、義父母は反対し、お互いの両親ともギクシャクしたままの入籍だった。
我が夫婦は、イザコザに巻き込まれるのが嫌で関わらないスタンスをとったため、義弟夫婦とは距離ある関係となった。
義弟の伴侶は39歳で亡くなった。
就職しやっと結婚、仕事が落ち着いたので、小さな結婚式をあげようと、ウエディングドレスを新調している矢先だった。
華やかなドレスを身にまとった彼女の姿を、棺のそばで、愛おしそうに見つめる義弟の姿を今でも忘れることはできない。

それから数年後、夫の「実家立ち退き事件」がおこり、夫と義弟は共同で作業することになった。

立ち退き騒動は第26話にあります
本は数百冊、写真やアルバムは山積み、義父の遺品や家族の衣類、家財の整理と処分を数ヶ月で完了しないといけない。
トラックの荷出しから業者調整までの重労働を、兄弟二人でタッグを組み必死でこなした。
400万円かけて家を壊し、家財を処分するという不幸な出来事なのに、兄弟二人ともなんとも楽しそうに作業していた。
兄弟にあいた長い空白の時間は、その作業過程で埋められていった。
【残り57日】最後の日
夫が逝く2ヶ月前、3年前の6月に弟が帰省。
歩くのが少し辛くなっている夫だったが 「二人でドライブしてきたら」というと珍しく素直に弟を誘った。
イオンライカム、読谷村、恩納村のビーチサイドレストランでステーキを食べた。10時30分にスタートして午後4時に帰ってきた。
帰ってきた時に見せた夫の笑顔は、果てしなく穏やかだった。
翌日、義弟が夫の放射線治療に付き添ってくれた。それが兄弟最後の日となった。

夫が逝ってから、我が家でいろんな人と飲むのが慣例となり、いつのまにか私と二人で居酒屋に。
私のいきつけの居酒屋で、大将と繰り広げる会話に楽しそうに加わり、みんな大笑い。
ふと、思う。
義弟と私はまるで戦友みたいだ。
戦友という響きは古めかしいし重くなる。が、きっと、こんな感じなんだと思った。
大切な人を亡くした悲しみは共有する。でも語るわけでもなく、ただ楽しく飲む。
そして、私は次会う1ヶ月後を楽しみに待っている