我が家の6月23日
うだるような暑さ、ぬぐっても、ぬぐっても、じっとりまとわりつく汗がうっとうしい。
6月23日がやってきた。 沖縄戦の亡くなった犠牲者を追悼する「慰霊の日」。毎年、我が家は、慰霊の日に「平和の礎」を訪れる。
沖縄戦最後の激戦地の場所に建つ平和の礎には、国籍問わず20数万人の犠牲者の名前が刻まれている
その20数万人の中に刻まれている、義父の家族に会うために私たちはここを訪れる。

義父は戦争孤児だった。長男だからと義父だけ叔父と一緒に熊本へ疎開。戦後、沖縄に戻ったら家族全員死んでいた。
母は弟をおぶったまま、姉2人も本島南部のどこかで、父親は出征地のフィリピンで戦死したそうだ。
義父の懐の深さ
義父は中学校の英語教師で、竹刀を持ちながら授業するコワモテで有名な生徒指導担当だった。 当時、校内暴力が一世を風靡した時代で、先生が力で生徒を抑え生徒も力で返した。
義父は暴力団事務所に出入りする生徒を引き戻そうと組員とも渡り合った。そんな父親に対し、夫は一度も反抗したことがなかった。
夫が大学生になると、義父は全ての規制を外した。
縄を解かれた動物が本能のまま生きるように、夫は酒、タバコ、遊び、学び、青春を謳歌した(反動が強すぎて道徳的な規制ははずれっぱなしだったが)

夫が就職すると、義父は夫と酒を飲むのを楽しんだ。
教育談義から物理学、哲学の話題で盛り上がり、お酒に強い血筋だったから親子二人で一升瓶の泡盛を軽く飲み干した。
酔うと「私は親の愛情を知らないんだよ。だから、どうやって子供を愛していいか、表現が分からない」とよく呟いた。
入籍前に挨拶した時、家族のことを尋ねられて「父の借金返済でいろいろあって…。あまり自慢できる環境ではないです」と言ったことがある。
すると「Every family has a skeleton in their cabinet」と小説の有名な一節を引用し「どんな家庭にも人には言えない、隠したい恥部があるんだよ、あなたの家庭だけじゃないよ」と諭してくれた
厳しいが、愛情深い人でもあった。
義父と平和の礎と私たち
そんな義父は、70歳まで、平和の礎の前に立つことができなかった。
自分の父の名を、母の名を、姉と弟の名前を観ることができなかった。
70歳になって、初めて平和の礎に足を踏み入れ、72年歳で亡くなった。

3年前の6月23日。あの日もうだるような暑さだった。
中学生のツインズが「今年もまた平和の礎?」とぼやいたが、無理やり連れて親子4人で訪れた。夫がいる家族最後の平和の礎。

夫が逝って3回巡った慰霊の日。思春期の息子を説得する気力はないから、私は一人で訪れる
義父の家族の名前を指でなぞり、お酒と花を添え、線香に火をともす。
生きたくても生きることができなかった人からもらった命。義父が生き残ったから繋がった命。
6月23日、この場所に立つと、命の価値を肌で感じる。
生きていることに素直に感謝できる