第54話 RFLジャパン〜医療の恨めしさ少し溶ける〜

看護師のアナタへ

RFL (リレー・フォー・ライフ)ジャパンへ参加

 『リレー・フォー・ライフ』ガン患者や家族を支援する活動で、1985年にアメリカから始まり、日本でも50か所の地域で活動を展開している。 

 沖縄で活動の主要メンバーとなっているのが、高校の同級生。数年前、facebookを通して再会し、看護師の彼女から『リレー・フォー・ジャパンおきなわ』のイベントを教えてもらった。

 

 何年前だったか、浦添市営のグラウンドで、ガン患者や家族を支援する人たちが、リレーしながらバトンを繋ぐ様子をFacebookでみた。
 ルミナリエ(キャンドルの灯りで浮かびあがるメッセージ)が、イベント会場に夜通し灯される風景は、web上だが圧巻だった。

 

 その時に参加を打診されたが、気がのらなかった。今回、数年ぶりにお誘いがあった。夫の3年忌も終えた区切りとして、二つ返事で参加してみた。

  

 

会いたかった看護師との再会

 公民館に運営本部を置き、館内広場にルミナリエを置いて灯す。県外会場をオンラインで結び、実況中継や講演、地域コミュニティのラジオで放送…と本格的な企画だ

 運営スタッフとして看護師数名がルミナリエの準備作業をしている。夫が6年間通院した病院の看護師だという。

 おそるおそる、最後まで夫をみてくれた”あの看護師”は元気なのか、と尋ねてみると、そのなかに彼女がいた。

 

 最初は彼女に気づかず、”あの看護師”の特徴をいくつかあげていたら、彼女の方から「〇〇さんですか?。〇〇さんの奥さんじゃないですか」と聞いてきた。

  

 

 

 ずっと会いたいと思っていたが、病院を訪ねる勇気はなかった。こんな形で再会できるとは思わなくてとまどった。

 彼女が私たち家族に、私に、踏み込んでくれなければ、夫の命の限界に気づくことはなかった。

 だから、ずっとお礼を言いたかった。感謝の言葉を沢山ならべたかった。けれど、想いに言葉が追い付かず、涙があふれ「ありがとう」しか言えなかった。

 

 夫が逝って2年4カ月、やっと「ありがとう」を伝えることができた

 

 彼女も、私達のことがずっと気になっていた、と駆け寄ってきた。

 コロナ禍で面会制限がある時期に夫はホスピスへ転院した、転院した日が息子たちとの最後になったのか、ずっと気になっていたそうだ。

 

知らなかった医療関係者の顔

 メインのファシリテーターをしている医師も、夫が通院していた病院の乳がん専門医。温かみある声と口調で話しかけてきてくれた。

 

 それまで面識はなかったが、患者を包み込む優しさが伝わり、やっぱり…涙しかでなかった。

 このイベントの運営には多くが医療関係者が関わっていた

 医師がテレビ制作プロデューサなみに立ち回り、会場から中継。かたわらで、夜勤明けや休日返上の看護師が雑用をこなしていた。

 

 

 

 医師に対し、看護師に対し「なんであの時…」「なんでもっと…」と、恨めしく思ったことはある。
 今だって、ワダカマリが残っていないわけではない。

 

 ただ、目の前で、こうして、医療現場とは異なるアプローチで、地道に活動を続けている医師がいる、看護師がいる、多くの医療関係者がいる。

 

 病院では知ることができないもう一つの顔がそこにあった

 

 この日、話しかけられては泣き、話しては泣き、とにかく涙しかでなかった。

 温かい光で包まれる、その空間は、とにかくココチよかった。

 

 ワダカマリの塊が少しだけ溶けて流れていく、そんな気がした

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