夫が惚れこんだ毒舌な取材相手
夫が新人記者の頃に出会った取材相手がいる。
政治や社会の裏側、汚れた部分を知り尽くし、新聞記者の考え方をこきおろし、人権を語ろうものなら何をほざいている論で切りつけ、「しょせん君らはおぼっちゃんの世間知らず」と刺す。
夫に負けない”毒舌野郎”がいたことに最初は驚いた。
政治思想から教育観まで、夫とは正反対の相手だが、夫は、彼に負けじと反論して飲むのがこのうえなく楽しそうだった。
組織の兵隊的立場の役職、自分の立ち位置をふまえつつ、肩書や権力におもねることなく、自分の価値尺度持って生きている。
ぶれない彼の生きる姿勢に、夫は心底、惚れこんでいるのが分かった。

私が「刺すような言葉を使うけど、魅力的な人だよね」と誉めると、即座に忠言。
「女性にもてるけど、気をつけろよ。友人の妻だろうが、すきあらばものにする人だからな。人として信頼しているが、男として信用はしていない」
そうとう惚れこんでいるな、と思わず笑ってしまった
毒舌仲間と最後の夕食会
5月になって、90kgの体重も20kg以上落ちた夫は、そういう自分をみられたくないのか、人と会いたがらなかった。
そんな夫が、”毒舌友人”と後輩に会いたいという。その後輩も、シニカルで、よく泥酔し記憶をなくしてやらかす点が夫とそっくりだった。
すぐに連絡をとり、家で夕食会をを開いた。夫は酒が飲めなかったから、紫のジュース(アサイー)をワイン気分を味わないながら終始、上機嫌だった。
会合の終わりがけ、自分の病状を話し「おそらく3か月から6か月しかもたないと思う」と言った。二人は静かに聞きながら酒を交わした。
「何を根拠にそんなこと言うの」と言いつつ泣いたのは私だけだった。
毎朝の小さなコミュニケーション
その日から、毎日、三人のLINEメッセージが始まった。
「おはよう」「おはよう」と。そして夫が「おはよう」と返信。時どき風景の写メが送られてくる。

7月、夫は、また彼らに会わないかとLINEした。「相手も忙しいはずだから8月でいいんじゃない」と言うと「そうか。じゃ8月にするか」と彼はあきらめた。
夫からのLINEは、8月11日で終わっていた。水道の蛇口の締め方が分からず、電気の点灯スイッチをどうしていいか右往左往し、眼鏡のかけ方を私にきいた朝だ。

毎朝、夫は一人だった。妻はバタバタと朝食を作り仕事の準備、息子たちは朝食を駆け込み追い立てられるように学校へ、そして息子を追いかけるように妻が出勤。
夫は、息子と妻を見送った後、独りで何を考えたのだろう。
死を考え、何のために生きているかを問い、気力のない自分と向き合った
そんな時、毎朝送られてくる「おはよう」のメッセージがどれだけ彼を勇気づけたことか
潤沢な言葉も励ましもいらなかった。必要なのは「おはよう」の一言。そこに込められた温かさと希望と愛を、毎朝、浴びていたんだ。
携帯の使い方も分からなくなっていたあの朝、夫が送った「おはよう」のメッセージ
自分の意思で身体を動かせる最後の動作が、そのメッセージの送信だった