ホスピスで2回目ハネムーン
ホスピス病棟に移動して6日目。私の幼なじみの誕生日
「もう死なせてくれ、おれは疲れた」
視力がないうつろな目で天井を見ながら、朝から声を張り上げてきた。今日は朝から威勢がいい
「今日はダメだよ、親友の誕生日だもん。死ぬのは明日以降だよ」
「いーや、死ぬ、もう逝かせてくれ」
喉奥からしぼりだした声だが、彼の元気さが伝わってくる。
どんな言葉でもいいからいつまでも聞いていたい、と思った

昼前に、突然「トイレに行く」と起き出してきた。
自分で体を起こすこともできなかったのに、すくっと体を起こし、手でベッドを押して、ベッド脇まで腰をすべらせてきた。
ベッドの手すりを取り外していたので、落ちる!と思い駆け寄った。
ベッドに腰掛ける姿勢で、彼は足を床につけたのだ。あまりの突然にその場にいるみんなが驚いた。
「動きたいんだね」看護師がすぐに車いすを持ってきてくれたので、彼を車いすに移動させた。
ホスピス病棟での初の散歩だった。
日が差し込む廊下を車いす押しながら一緒に歩いた。
職員が温かい笑顔で迎え、挙式のバージンロードを思い出した

結婚式はカナダのバンクーバーで挙げた。大学時代に私がワーキングホリデーで1年間住んで人生を再起動させた場所
人生のパートナーとのスタート地点にしたいと思いたち2か月の準備で決行した。数名の親戚と友人だけの小さい式だったが、温かい式だった。
病院の廊下を二人で歩いたら、あの時の温かさが私たちを包んだのだ。
そのままハネムーンに行った気分になった。
院内のフロアを一周しただけだったが…世界一周している気分だった
廊下はながく、とてもながく感じたのに、病室に戻ったら10分もたっていなかった。
彼をベッドに横たわらせた。彼はすぐ寝入った。よほど疲れたか、ぐっすり眠った。
「今日は車いすで散歩したんだってね」と看護師さんが、かわるがわるやってきて、声を掛けてくれた
そして彼は旅立った
野球部息子が「お父さん今日は元気だから、家に帰って寝ようかな」と呟いた。2日間せまい空間で寝泊まりして息子は疲れたようだ
「病院にいなさい」と、私は、ひとまず引き留めた。今日はいたほうがいい、なんとなくそう思ったのだ。
夫は夕方まで起きることなく寝ていた。
仲のいい看護師さんが夜勤で現れた。彼女は、深くゆっくり呼吸しながら寝入っている彼の様子をじっと見つめ、私に病室の外にでるよう目で促した。
そして、私の目を見て、かみしめるよう言った。「覚悟した方がいいかもしれない」
予想していた言葉ではあった

病室に戻り息子たちに「お父さんの手、握ろうか。もしかしたら最後かも」と言うと、昼間の父をみた彼らは半信半疑だった。
手を握りながら、夫を見つめていたが、やっぱり寝ているようにみえた。
普段より息が深い。深い、というより、身体全体で息を吸いこみ、しばらく間をおいて、全身で息を吐く感じだ。
私たちは、ゆっくり長い呼吸を、静かに聞いていた。どれくらい聴いていたのだろう。
彼の手に息子たちと手を重ねて、時間がすぎていった。
息の感じが変わってきた。吸う息が浅い感じになり、吐くまでの間が短くなってきた。
だんだん音がうすくなり、そして……”音”が…きこえなくなった。
周りから一切の音がなくなった

三人で目を見合わせて、看護師を呼んだ。少し遅れて医師が来て、心音を確認した
「8月18日21時2分。お亡くなりになりました」
彼の最後の瞬間
”死ぬ”ってこうもあっけないんだ
人はもがいて産道から生まれ出るのに、死ぬのはこうもあっけない
悩み苦しみながら必死で生きるのに、死ぬのはこうもあっけない
死ぬってこういうことなんだね