なぜ沖縄を知ってほしいのか
私は沖縄が大好きだから、沖縄に興味をもった人がいるなら知ってほしいです。沖縄県のこと?と聞かれますが、”沖縄”のことです。
「夫婦ブログ書けよ」って突っ込まれるかもしれませんが、もし”沖縄”というワードをかすった人がいて、ここにたどり着いたら、ざっくりでいいから知ってもらえたらありがたいです。

歴史説明はopen-mama的表現ですのでご了承を
沖縄の先史&古琉球時代
日本全国で一律に学ぶ教科「日本史」では、古代までの時代区分として縄文時代→弥生→古墳→奈良→平安時代があります。

すぐそこに海あるからね、ふむ

雄大な交易ルート「貝の道」があった
ロマンじゃないですかぁ
日本史は「平安時代」は400年、貴族中心の時代があり、その後武士の時代である鎌倉時代になります。
沖縄では、平安時代の中頃から鎌倉時代まで、”弥生時代に豪族文化をドッキングさせたような「グスク時代」という時代になります。
各地をまとめる按司(アジ)という首長が現れて、勢力の強い按司がでてきて、やがて戦国時代のような群雄割拠の時代になります(伝説の『按司物語』もたくさんあります!)

太陽の王様「英祖王」のお墓も行ってみて
「浦添ようどれ館」オススメだよ
日本史の室町時代の南北朝時代のころ、沖縄は、群雄割拠の時代から南山、中山、北山という3つの勢力に分かれ、三山時代を築きました。
その当時のアジアは中国を中心とした大きな文化圏でしたから、三山の王は、自分がその地域の王だと認めてもらうため、中国(明)に貢物をして、服従する代わりに王として承認を受けました。
中国(明)からのお返し品と中国との貿易も許されたので、大陸の豊かなものが琉球にもたらされるようになりました。


世界遺産の今帰仁城や座喜味城址オススメ
・ゆんたんざんミュージアム
・今帰城村文化センター
中国は琉球の国王と認める時に冊封使という団体(約400名)を送ってきました。
この人たちは約半年間、琉球に滞在したのですが、琉球側は、定期的に祝宴を開きもてなしました。
三山時代の終わりごろに始まった冊封使は、その後琉球王国の時代まで500年続くことになります。

この「おもてなし」から古典芸能がうまれたのね
分かれていた三山を、南山の按司である尚巴志さんが統一して「琉球王国」ができます。
日本史の室町時代→(戦国時代)→安土桃山時代→江戸時代までの約400年、琉球王国は続きました。

尚巴志さんの王統は約70年続きました。その後、重職を担っていた金丸さんが政権をとり、金丸さんの王統を第二尚氏と呼ぶのですが、第二尚氏が琉球王国を最後まで率いました。
鎌倉、室町、江戸幕府の3代目将軍がすごかったように、第二尚氏も3代目の尚真王がひとつの国としてまとめ、琉球王国の基礎を作りました。
強い按司を首里に住ませ、市町村のような区域を整備し、身分制度を確立させ、宮古・八重山の反乱も治め、王統の歴史書作りをスタートし、琉球王国の黄金時代を築きました。

200年間は独立国家として繁栄したんですよね
《近世琉球】繁栄から二足のわらじ国家へ
尚巴志が琉球を統一してから200年後、ちょうど江戸幕府がスタートしたころ、薩摩藩(今の鹿児島県)に侵攻されました。
王国は滅亡するかぁ、と思いきや、王国は形式的に独立を保ちながら、今度は日本(江戸幕府)とも主従関係をもったのです。

えっ、で、中国とはどうなったの?
中国との関係は続ける必要がありました。
鎖国していた江戸幕府にとって、中国との密接な関係をもってる琉球王国の利用価値は高ったし、関ヶ原の戦いで負けた外様大名の薩摩藩としても、琉球と中国の進貢貿易の莫大な利益は必要だったのです。
琉球王国サイドも、独立国として体裁を維持できることは重要だったのです
琉球(首里城)には薩摩藩の事務所がもうけられたのですが、冊封使が来るときは日本との関係を中国(明)知られないように工夫しました。

200年も中国と日本に主従関係って器用じゃね

強者と共存する知恵でもあるよね
琉球王国の体裁を維持するため2つの国に従属しましたが、幕府への「江戸上り」費用はどんどん負担が大きくなりました。
やがて、中国(清)との貿易が赤字になると、琉球王国は財政は火の車となっていました。
《もう一つの沖縄》宮古・八重山の歴史
沖縄の160の島を大きく沖縄の160の島をざっくり3つに分けると沖縄本島、宮古、八重山諸島があります。
今まで語った歴史は主に沖縄本島のことで、宮古・八重山諸島にはまたまた地理的特性と歴史や文化圏をもっています。

宮古・八重山の島々でも違いますが
先史時代は「貝塚時代」とは生活様式が異なる「先史時代」があり、台湾やフィリピンなどの南方の文科圏の影響をうけていました。
琉球史の三山時代に、宮古・八重山でも各地に村落が形成され、武力で支配する首長が現れました。そして三山の王へ貢物をして服属関係をもちました。
なんせ、中国や南方地域と貿易しているのですから、外国の豊かな文物があふれていたことは想像できますよね。
富と武力をもった按司が各地に現れ、それぞれの島で、統一しようと競い合い、群雄割拠の時代になります。

与那国の女性首長サンアイ・イソバカッコいい~
琉球王国に統一されると、首里から遠く辺境の地として年貢に苦しめられたのです。そこから大きな反乱もありましたし、税の負担が重いと薩摩藩に訴えたこともありました。
沖縄本島サイドの華やかな首里城は、宮古や八重山地域から見ると圧政の象徴であったかもしれないですね。
沖縄の歴史というと、宮古と八重山からの視点も忘れちゃいけないのです。